レルヒ中佐と後方羊蹄山

レルヒ少佐

 オーストリア=ハンガリー帝国(当時の国名)の軍人レルヒ(1869-1945年)は、世界の予想を覆して日露戦争に勝利した日本陸軍を研究するため1910年11月末に来日し、約2年間の滞在中、ヨーロッパのスキー技術を日本に普及させました。

 来日時は少佐の地位で、新潟県現上越市の第13師団に着任しました。1911年1月12日から約2か月間、軍人や教師を対象にスキーの講習会を開催しました。

 ヨーロッパでは、ノルウェーの科学者ナンセン(1861-1930年)が1888年スキーでグリーンランド横断の快挙を成し遂げたことにより、スキーへの関心が急速に高まっていました。その刺激を受けたオーストリア=ハンガリー帝国(当時の国名)のツダルスキー(1866-1940年)が、アルプスの急斜面に対応できる一本杖とボーゲンによる滑降術を考案しました。ツダルスキーの弟子だったレルヒ少佐が、その技術を日本にもたらしたわけです。

 レルヒ少佐にとって、スキーは第一に軍事的移動手段なので、急峻なアルプスを転ばず確実に降りるために、一本杖を使ってボーゲンやシュテムの技術(スキーをハの字に開いてターンする技術)で制動をかけながら滑るものでした。

 ちなみに、スキーを平行にしたまま滑るパラレルターン技術が確立されたのは、第1回冬季オリンピック(1924年フランス・シャモニ)等の競技会開催を機にスピードを追求する時代になった1930年頃とされています。

 レルヒ少佐は、1911年4月に富士山へのスキー登山に挑戦し、9合目で断念したとされています。

 その後9月に中佐に昇進し、翌1912年旭川第7師団に着任しました。

 新潟ではレルヒ少佐として、北海道ではレルヒ中佐として親しまれているのは、途中で昇進したことによるものです。

レルヒ中佐

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レルヒ中佐像

 レルヒ中佐は北海道でもスキーの指導と普及にあたりました。

 深田久弥の原著にもあるとおり、レルヒ中佐は1912年の積雪期に後方羊蹄山にスキー登山を試みました。5合目半にスキーをデポして、そこから上はスキー用の一本杖をついて登ったとの地元での記録があります。吹雪の中、山頂部の平坦な所まで到着したとされていますが、危険な天候のため即刻下山したとされています。総勢11人のうち凍傷を負った者も出ました。

 このスキー登山には小樽新聞の記者も参加しており、その様子は地元でも報道されたとのことです。

その後のレルヒさん

 ヨーロッパに戻ったレルヒさんは、第一次世界大戦に従軍しましたが、負傷により退役しました。
 そして1945年のクリスマスイヴの日に、糖尿病のため世を去りました。

 レルヒ少佐がスキーを伝えてから100周年となる頃、新潟県観光キャンペーンのゆるキャラとして、レルヒ少佐がよみがえりました。スキー百周年記念行事が各地で開催され、当時のスキー滑降術を再現披露したイベントも開催されました。
 2012年には、女子小学生3人のユニットによる「レルヒさんのうた」がリリースされました。
 更に、2018年の冬季国民体育大会「にいがた妙高はね馬国体」では、レルヒさんがマスコットキャラクターとして採用されました。

 軍事目的で来日しスキー技術を我が国に伝えたレルヒさん自身も、世紀を超えて日本国民に愛されることになるとは、思いもよらなかったことでしょう。