スキー・スノボ シーズン到来
スキー場オープン
2022年10月21日に静岡県裾野市のフジヤマスノーリゾートイエティがオープンしたのに続き、11月3日に長野県の軽井沢プリンスホテルスキー場がオープンしました。
これらは砕いた氷を斜面に敷いたスキー場ですが、シーズン到来を待ちわびたスキーヤー・スノーボーダーが繰り出すとともに、紅葉の中を滑ることができるので、人気を博しているようです。
スノースポーツを楽しむことができる背景に、今から約112年前に来日してスキーを伝えた「レルヒさん」の功績が大きいと思っています。
日本にスキーを伝えたレルヒさん
オーストリア=ハンガリー帝国(当時の国名)の軍人レルヒ(1869-1945年)は、世界の予想を覆して日露戦争に勝利した日本陸軍を研究するため1910年11月末来日し、約2年間の滞在中、ヨーロッパのスキー技術を日本に普及させました。
来日時は少佐の地位で、新潟県高田の第13師団に着任しました。そして1911年1月12日から約2か月間、日本の軍人や教師を対象にスキーの講習会を開催しました。
ヨーロッパでは、ノルウェーの科学者ナンセン(1861-1930年)が1888年、スキーでグリーンランド横断の快挙を成し遂げたことにより、スキーへの関心が急速に高まっていました。その刺激を受けたオーストリア=ハンガリー帝国(当時の国名)のツダルスキー(1866-1940年)が、アルプスの急斜面に対応できる一本杖とボーゲンによる滑降術を考案しました。ツダルスキーの弟子だったレルヒ少佐が、その技術を日本にもたらしたわけです。
レルヒ少佐にとって、スキーは第一に軍事上の移動手段なので、急峻なアルプスを転ばず確実に降りるために、一本杖を使ってボーゲンやシュテムの技術(スキーをハの字に開いてターンする技術)で制動をかけながら滑り降りるものでした。
ちなみに、スキーを平行にしたまま滑るパラレルターン技術が確立されたのは、第1回冬季オリンピック(1924年フランス・シャモニ)等の競技会開催を機にスピードを追求する時代になった1930年頃とされています。
レルヒ少佐は、1911年4月富士山でスキー滑降を敢行しています。
北海道でもスキー普及に努めたレルヒさん
1911年9月に中佐に昇進したレルヒさんは、翌1912年2月旭川第7師団に着任しました。
新潟ではレルヒ少佐として、北海道ではレルヒ中佐として親しまれているのは、途中で昇進があったことによるものです。
レルヒ中佐は北海道でもスキーの指導と普及にあたりました。
登山家で作家でもある深田久弥の「日本百名山」に記されているとおり、レルヒ中佐は1912年の積雪期に後方羊蹄(しりべし)山にスキー登山を試みました。5合目半にスキーをデポして、そこから上はスキー用の一本杖をついて登ったとの地元での記録があります。吹雪の中、山頂部の平坦な所まで到着したとされていますが、危険な天候のため即刻下山したとされています。総勢11人のうち凍傷を負った者も出ました。
このスキー登山には小樽新聞の記者も参加しており、その様子は地元でも報道されたとのことです。
祖国に帰った後のレルヒさん
ヨーロッパに戻ったレルヒさんは、第一次世界大戦(1914-1918年)に従軍しましたが、負傷して退役しました。
オーストラリア=ハンガリー帝国は大戦に敗れて解体されたため、恩給が出ず、老後の生活は必ずしも順風ではなかったようです。
そして1945年のクリスマスイヴの日に、糖尿病のため世を去りました。
レルヒ少佐がスキーを伝えてから100周年を迎えた日本で、新潟県観光キャンペーンのゆるキャラとして、レルヒ少佐がよみがえりました。スキー百周年記念行事が各地で開催され、当時のスキー滑降術を再現披露したイベントも開催されました。
2012年には、女子小学生3人のユニットによる「レルヒさんのうた」がリリースされました。
更に、2018年の冬季国民体育大会「にいがた妙高はね馬国体」では、レルヒさんがマスコットキャラクターとして採用されました。
軍事目的で来日しスキー技術を我が国に伝えたレルヒさん自身も、世紀を超えて日本国民に愛されることになるとは、思いもしなかったことでしょう。
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