雲取山
三多摩地域(北多摩・南多摩・西多摩)が神奈川県から東京都に編入されたことにより、「この大首都はその一隅に二千米の高峰を持つ名誉を獲得した」と深田久弥は記しています。三多摩東京編入の背景には、水に関する利害がありました。
雲取山一帯は東京都民の水がめ
徳川家康が江戸に幕府を開いて以降、江戸の人口は増加傾向をたどりました。1635年三代将軍徳川家光が参勤交代を制度化してからは、諸藩の大名屋敷が置かれるなどして人口が急増しました。
江戸時代初期、江戸の街は井の頭池・善福寺池・妙正寺池等の湧水を引いた神田上水等に生活用水を依存していましたが、人口急増に伴う水需要に対応するため、幕府は1653年玉川上水を竣工させました。多摩川の羽村堰から四谷大木戸(新宿御苑付近)まで、武蔵野台地を自然流下する延長43kmの素掘り水路(標高差93m)をわずか8か月で築き上げました。更に驚くべきは、武蔵野台地のゆるやかな起伏の中に尾根筋を見つけながら建設したことです。このことにより、後に野火止用水や千川上水等、幾多の分水路を追加建設することができました。
四谷大木戸から先は、石樋や木樋を地下に敷設して、翌1654年江戸城はじめ赤坂・麹町等のエリアに配水を開始しました。
明治時代に入り、多摩川の水源エリアや玉川上水の上流側半分以上が含まれる三多摩地域は神奈川県に括られました。
現東京都(当時の東京府)は、水源を確保する目的で、明治初期より三多摩地区の東京編入をめざしていましたが、神奈川県の反対により頓挫した経緯があります。
しかし、甲武鉄道(現中央本線)の新宿~八王子間が1889(明治22)年開通し三多摩と東京の結びつきが強まったのを背景に、1893(明治26)年に現東京都への編入法案が帝国議会で可決成立しました。
玉川上水は、作家太宰治が1948年に入水自殺を遂げたことで有名になりましたが、江戸時代初期これだけの測量技術と土木技術があったことはもっと知られてよいと思います。
水道水源林
浄水場から圧力をかけて上水を送る「近代水道システム」が、東京では1898年に神田・日本橋エリアで始まりました。そして水源の重要性は、人口増加とともにますます高まりました。
現東京都は1901年、多摩川の水資源管理のため、多摩川上流部の森林を「水道水源林」として保護する取り組みを開始しました。山梨県側の多摩川源流部笠取山一帯まで順次管理区域を拡大し、水源涵養力の高い広葉樹中心の原生林(天然林)を保全するとともに、山火事等により森林を喪失したエリアには寒冷地に強いカラマツ・ヒノキ等の苗を植えて人工林を育成してきました。
東京都水道局ホームページによると、2021年4月現在その面積は2万5千ヘクタールに及びます。
(東京ドーム5347個分)
笠取山の懐に水干(みずひ)と呼ばれる場所があり、ここから多摩川138kmの流れが始まります。水干は沢の源頭の意味です。
笠取山の西方には、多摩川・荒川・富士川を分ける分水嶺があります。三つもの大河川を分ける峰なので、さぞかし大きな山と思いきや、意外なことに小ピークで、その名も「小さな分水嶺」です。
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(注)東京府から東京都に改編されたのは1943年ですが、文中ではそれ以前の出来事に関して「現東京都」と記しています。